最近の気づき、日本文化にどっぷり浸かっていると慣れて怠ってしまうこと。
そもそも怠っていることに気づくことも難しい点。
理想を明文化する
成長フェーズにあれば目に映るもの全てがお手本になる。お手本イコール理想となり、文章よりもっとリアルな形でイメージが目の前に存在する。
成長が済むフェーズになるとお手本がなくなり、実現したいリアルな理想像が減る。目に見えるもの、手に取れるものがなくなると急にイメージするハードルが上がる。
欲しいものは何?行きたいところはどこ?達成したいゴールは何?何を食べたい?休みの日は何をしたい?
せめて文章で目に入る形に表現しておかないと、理想はどこかへ行ってしまう。
自分の理想がなくなるとそこに誰かが作った理想が居座る。これはなかなか自分でも気付けない。
一般的ではない解を明文化する
正しくないことがわかっていても多くの人がそれを口にしない。健康食品の効果とか、メルカトル図法の土地面積とか。
マイナーな意見は正しくても大きな声で言わない、そんな奥ゆかしさが評価されたりする。
学びを怠ると声が大きいものが正しいものだと誤解するようになる。インターネットやAIで調べると大きい声が正しいという結果が返ってくるので、より確信を強めることになる。
提示されたものは一つの解。声の大小に惑わされず「ところで私の解はこちらです」と表明できる姿勢でいなければいけない。
テーマを提起する
理想と現状のギャップ、大きな声と自分の解とのギャップ、もしそこに差があるならば解決すべきテーマが成立する。
一人で取り組むテーマか誰かの力を借りないと解決できないテーマか、粒度は様々ある。
自分事のテーマだと思っていても解決策は他者の役に立つ内容かもしれない。おそらく人間なんて皆大差ないのだから、一人の解決は大概誰かの役に立つ。
インターネット界のオープンソースという仕組みは正にで、個人の些細な解決が世界の知に貢献している。
打算を開示し無理なく続くバランスを見つける
物事を見る面が異なれば意見が180度異なるのが原理、原則。戦争を始めてしまったら何も解決につながらない、敵対関係が強化されるだけだ。
共存を求めるならば互いに無理のないバランスを見つけなければならない。
とはいえそこで騙し合い、腹の探り合い、一切の交渉の余地がない、では戦争につながってしまう。
自分が欲しいもの差し上げるもの、相手が欲しいもの差し上げるものを組み合わせて、無理なく共存を続けられるバランスを見つける能力、これはもしかすると生物の最重要アビリティかもしれない。
表現し続ける
理想が何かしらの形で見える化すること、そこに至る解や仮説を表明できること、現在地とのギャップを解決すべきテーマとして設定できること、周囲と無理なく共存できるバランスを見つけられること、いずれに関しても表現することを要求されている。
一度表現すれば十分ということではなく、相手が理解できるまで繰り返し表現しないとならない。
前提条件や環境の変化に応じて、表現する内容も変えないといけない。
上記のことは、国語、算数、理科、社会、のような科目に収まらない。
全ての親が理解し教育できるとも限らない。
しかし良家では当然の教養として受け継がれていると感じる。
